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神戸地方裁判所姫路支部 平成8年(ワ)708号 判決

原告

乙川一郎

乙川花子

右原告ら訴訟代理人弁護士

宗藤泰而

渡部吉泰

上田日出子

野口善國

増田正幸

平田元秀

坂井希千与

被告

龍野市

右代表者市長

西田正則

右訴訟代理人弁護士

菅尾英文

川村亨三

主文

一  被告は、原告らに対し、それぞれ一八九六万四六三九円及びこれに対する平成六年九月九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを二分し、その一を被告の、その余を原告らの各負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  原告らの請求

被告は、原告らに対し、それぞれ三五一七万五〇〇〇円及びこれに対する平成六年九月九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、龍野市立揖西西小学校(以下「本件小学校」という。)六年生であった乙川次郎(以下「次郎」という。)が、平成六年九月九日(以下、平成六年中の日時については、特に年度を断らないで日付を記載する。)に担任の甲野太郎教諭(以下「甲野教諭」という。)から殴打され(以下「本件殴打行為」という。)、同日中に自宅付近の裏山で首をつって死亡しているのが発見されたことについて、次郎の両親である原告らが、次郎は甲野教諭による本件殴打行為が引きがねとなって自殺したものであると主張して、国家賠償法一条一項に基づいて被告龍野市に対して損害賠償を求めている事案である。

一  前提となる事実(争いのある事実についてのみ証拠を掲記する。)

1  当事者

(一) 次郎は、昭和五八年一月一五日生の男児であり、平成元年四月、本件小学校に入学し、同六年四月に六年次に進級し、本件殴打行為当時は六年一組に在籍していた。原告乙川一郎は次郎の父親、原告乙川花子は次郎の母親である。

(二) 本件小学校は、被告の設置管理にかかる小学校であり、本件殴打行為の発生した当時の校長は能勢藩(以下「能勢校長」という。)、次郎の担任教諭は甲野教諭であり、これらの者はいずれも被告龍野市の公務員であって、国家賠償法一条一項にいう公権力の行使に当たる者である。

なお、甲野教諭は、昭和五一年三月に大阪教育大学教育学部を卒業後、同年四月に小学校教員となり、平成四年四月に本件小学校に赴任してきて、平成五年度(五年二組)と同六年度(六年一組)に次郎のクラスを担任していた(証人甲野太郎)。

2  本件殴打行為の存在

甲野教諭は、前示のとおり、本件小学校の教諭として六年一組の学級担任をしていた者であるが、九月九日の放課後である午後三時頃、同組の教室内において、次郎から「運動会のポスターの絵、自分で考えたのでもええん。」と聞かれ、授業中既に次郎らに運動会のポスターの描き方について説明をしたはずなのに、次郎がまたしてもこれを聞いてきたことから、次郎の頭部及び両頬を数回殴打するなどの暴行を加えた(本件殴打行為。暴行の動機、態様など本件殴打行為の詳細については争いがあるものの、右の限度では当事者間に争いがない。)。

3  次郎の死亡

次郎は、九月九日午後八時頃、自宅北側の裏山で、シュロの木にナイロンロープをかけて輪を作り、その輪に首をつって死亡しているところを、祖父の乙川三郎に発見された。発見時、次郎の足先は地面から少し浮いた状態で、身体の右側には足場にした椅子があり、身体の下には次郎のつっかけが落ちていた。同夜、兵庫県龍野警察署警部補後藤憲郎が、医師八十川信正の立会の下、検死を実施した結果、死体の頚部に索状痕が鮮明に出ており、死因は定型的縊死、死亡推定日時は同日午後四時頃と認められた(甲二三、二九、三〇、三三の1、2、八七)。

二  争点

1  次郎の死亡は本件殴打行為が引きがねとなった自殺であるか。すなわち、次郎の死亡は自殺であるか。また、次郎の自殺と本件殴打行為との間に事実的因果関係があるか。

(原告らの主張)

本件において、次郎が自殺したこと、その自殺が甲野教諭による本件殴打行為によって発生したものであることは明らかである。

(被告の主張)

次郎がシュロの木にかけたナイロンロープで首をつって死亡したことは認める。しかし、自ら首にロープをかけたものか、誤ってロープが首にかかり外れなかった事故によるものか不明である。けだし、現場は次郎の遊び場であり、また制服も着替えて出かけるほど気持ちに余裕があったこと、それに甲野教諭による本件殴打行為の後も同級生に翌日のソフトボール大会の時間を聞いたり、忘れ物を取りに学校に帰ったりしているところから、自殺しようと考えていたとは思えない状況があるからである。

2  次郎の自殺について学校側に責任があるか。また、その責任原因と次郎の自殺との間に相当因果関係があるか。

(一) 本件殴打行為について

(原告らの主張)

(1) 責任原因の存否(本件殴打行為の違法性の有無、程度)

本件殴打行為は、教員が自らの憤激にかられてした理不尽な暴力であって、「教育的指導」と評価する余地のない単なる暴行である。したがって、本件殴打行為は断じて許されない違法行為である。

(2) 相当因果関係の有無

次郎は教師から叱責・訓戒を受けなければならないような問題行動・非行事実がないにもかかわらず、理由の分からないまま、級友の面前で、教師から一方的に暴行を受けた。受けた暴行も二回にわたる執拗なものであり、次郎が口の中を切り出血するほどの強度のものであった。かかる暴行を受けた児童生徒が大きな精神的衝撃を受け、その衝撃は長い年月にわたって残るような性質のものであることは明らかである。現に、次郎は男の子であるにもかかわらず、涙を浮かべて無言で甲野教諭を睨み、訳もなく自分を殴ったことに対する強い抗議・恨みを表現していた。そして、子どもの自殺に関する啓蒙的な文献(甲一一二)は、「子どもは自分の死によって自分を苦しめた相手を罰しようとする内的な願望をもっています。たとえば、理不尽に自分を叱った親に仕返しをしようと思っても、腕力では劣るし議論でも負けるという場合、親を懲らしめる方法というのがない。そこで、自分にできる最後の、そして最大の方法として自分の命を犠牲にして相手に打撃を与えようとするわけです」と指摘しているのである。さらに、本件殴打行為がなされた平成六年当時、いじめを原因とする子どもたちの相次ぐ自殺によって、教師は子どもの心の脆弱さや衝動性を思い知らされていたはずである。

これらの事実関係を総合すると、次郎は甲野教諭の理不尽な暴行によって「攻撃的な自殺」に走り得る危険な精神状態に陥り、遂に自殺してしまったものと推認することができ、教育専門家としての教師が通常有すべき知識経験を基準とすれば、甲野教諭において次郎の自殺を予見し得たというべきである。したがって、甲野教諭による本件暴行と次郎の自殺との間には相当因果関係がある。

(被告の主張)

(1) 責任原因の存否(本件殴打行為の違法性の有無、程度)

次郎はこれまで授業中私語が多く、説明したことをきちんと聞いておらず、同じことを聞いてくることがあった。そのことについて甲野教諭は「人が話しているときはふざけないで聞いてほしい。聞く態度を示してほしい」と思い、注意をしてきた。今回も第三時限目に運動会のポスターの描き方について既に説明をなしたにもかかわらず、当日の授業終了後、次郎が再度ポスターの描き方について質問したため、甲野教諭において次郎が自分の説明を聞いていない、すなわち授業中の態度が落ち着かないために充分に理解していないと考え、懲戒する意図で本件殴打行為をなしたものである。このように本件殴打行為は「教育的指導」の一環であるが、それが行き過ぎてしまったものである。なお、甲野教諭は本件殴打行為に際して、「平手」ではなく「三本指」で殴打するなど次郎が怪我をしないように手加減していた。

(2) 相当因果関係の有無

学校教師の懲戒行為によって受けた精神的苦痛ないし衝撃により、当該生徒が自殺を決意し、更にこれを決行するような心理的反応を起こすことは通常生ずべき結果ではなく、極めて稀有な事例に属することは経験則上容易に肯定できるところである。それ故かかる場合になお当該懲戒行為と自殺という結果との間に相当因果関係(法律上の因果関係)があるというためには、生徒の自殺を招来するということについての特別の事情につき教師において当時これを予見していたか、または少なくとも予見し得べかりし状況にあったことを要する。

そして、右特別の事情としては全校生徒の前で当該生徒を罵倒するような自尊心を著しく傷つけ恥辱の思いをさせるというような状況が考えられるが、本件においてはそのような事実はない。すなわち、今回は授業終了後の出来事であるため残っていた生徒は少なく、また怒られるのは今回が初めてではないことから、怒られたことで今回に限り次郎の自尊心を著しく傷つけ恥辱の思いをさせたとは到底考えられない。さらに、本件殴打行為の後も、次郎は同級生に翌日のソフトボール大会の時間を聞いたり、忘れ物を取りに学校に帰ったりしているのであり、同級生の目にも次郎は普段と全く変わりなく、自殺する兆候はみじんも見られなかったのである。勿論、甲野教諭においても、次郎が自殺することの予見可能性は全くなかったのであって、本件殴打行為と次郎の自殺との間に相当因果関係はない。

(二) 安全配慮義務違反について

(争いのない一般論)

公立小学校の教員には学校における教育活動及びこれに密接に関連する生活関係における生徒の安全を確保すべき配慮義務があり、特に、生徒の生命、身体、精神、財産等に大きな悪影響ないし危害が及ぶおそれが現にあるようなときには、そのような悪影響ないし危害の現実化を未然に防止するため、その事態に応じた適切な措置を講ずる義務がある。

(原告らの主張)

体罰あるいは暴行は教育者として絶対にしてはならない行為であるが、体罰あるいは暴行を加えてしまった以上は、それによる被害を最小限にくい止める努力を事後的に行う必要がある。暴行によって、児童が負傷していないかを確かめ、負傷しておれば直ちに治療を受けさせ、また児童が受けた精神的ショックがどの程度のものかを確かめ、謝罪あるいはカウンセリング等の適切な処置をとってそのショックを和らげる必要がある。そして、右のような暴行・体罰がなされた場合には、直ちに保護者に連絡をとる義務を負う。これを本件についてみるに、甲野教諭は、次郎が本件殴打行為の後に涙を浮かべた時点で、次郎が大きな精神的打撃を受けたことを察知し、次郎に謝罪して次郎の気持ちを落ち着かせるなり、次郎が帰宅した後、次郎の保護者に説明して謝罪を行う義務を負っていたというべきである。特に、本件の場合、甲野教諭は、児童の自殺の原因となり得るような執拗でいわれのない暴力を自らふるったのであるから、被害を受けた児童をより注意深く観察すべきだったのである。しかるに、甲野教諭は、次郎が目に涙をためて自分を見上げていたのに気づいていたにもかかわらず、何らの措置もとらなかったばかりか、その直後、次郎に背を向けて、次郎を拒否した行動をとったのであって、この時点で次郎の自殺を予見し得たのに救出義務を怠ったといわざるを得ない。

(被告の主張)

教師に安全配慮義務が発生するのは、客観的に見て重大な結果発生が明白に予測される場合である。しかるに、前述したとおり、甲野教諭は自分のした行為(本件殴打行為)によって、次郎が精神的打撃を受け、そのために自殺することは、本件殴打行為当時全く思いもよらなかったのである。すなわち、甲野教諭にとって本件殴打行為はこれまでよりきつい叱り方であったかもしれないが、普段と何ら変わらないことをしたとの認識しかなく、そのため次郎もこれまでと同様にしか感じていないであろうとしか思っておらず、自殺の予見可能性など全くなかったのである。したがって、本件殴打行為当時、甲野教諭において次郎の自殺防止のための配慮をしなければならない状況にはなかったのである。なるほど、各教育委員会は、体罰を加えた後の措置として原告ら指摘の措置を指導しているが、甲野教諭は本件の場合その必要がないと判断してフォローを行わなかったのであり、甲野教諭がそのように判断したこともやむを得ないものであったことは既に述べたとおりである。よって、甲野教諭において次郎の自殺防止のための配慮をしなかったことについて、過失(安全配慮義務違反)はない。

なお、本件殴打行為の後、次郎がうっすらと目に涙を浮かべていたことは認めるが、甲野教諭はこれを見て、次郎がやっと遊びと授業のけじめをつけてほしいという気持ちをわかってくれたと思ったのである。

3  原告らの損害の有無、数額

(原告らの主張)

(一) 次郎に発生した損害

(1) 慰謝料 三〇〇〇万円

(2) 逸失利益

二四三五万六七七四円

(3) 相続

原告ら両名は、右損害賠償請求権合計五四三五万六七七四円を各二分の一ずつ相続取得した。

(二) 原告ら固有の損害

(1) 慰謝料 各五〇〇万円

原告らは、本件殴打行為によって唯一の跡取り息子を失った上、次郎の死後の能勢校長らの事実を隠蔽しようとするばかりの不誠実な態度によって精神的苦痛を倍加されている。これらによって原告両名が受けた固有の精神的苦痛の慰謝料は各五〇〇万円を下らない。

(2) 弁護士費用 各三〇〇万円

(被告の主張)

原告ら主張の損害については争う。

第三  当裁判所の判断

一  争点1(次郎の死亡は本件殴打行為が引きがねとなった自殺であるか。)について

1  前記第二の一3に認定した死亡現場の状況によれば、次郎が自殺したことを優に推認することができ、右認定を覆すに足りる証拠は存しない(なお、次郎の死体検案書には、次郎の「死亡の種類」は「自殺」と記載されている〔甲八七〕。)。

なお、被告は、次郎自らが首にロープをかけたものか、誤ってロープが首にかかり外れなかった事故によるものか不明であると主張するが、証拠(甲九、六〇、六一、六五)によれば、次郎は、本件殴打行為の後、一人で下校し、帰宅後も、友人と誘い合せて裏山に出かけたような形跡はない。児童が一人でナイロンロープを高い木にくくりつけて輪を作り、その輪に首を入れるような遊びをするとは到底考えがたいところであり、そのような遊びが、当時、次郎をはじめとする周辺の児童の間ではやっていたことを窺わせるような証拠もない。被告の主張は、本件殴打行為後、次郎の行動が、特に普段と変わったところがなかったとの点を理由とするものであるが、翌日の行動の予定を級友に確かめていたこととか、忘れ物を取りに学校に戻ったこと、帰宅後着替えをしたことといった事実は、いずれも前記の死亡現場の状況から推認される自殺の認定を左右するものではない。かえって、本件殴打行為後の次郎の一連の行動は、次郎が級友や家人に会うことを意識的に避けるように行動していたことをうかがわせるものといえる(甲九、六〇、六一、七六の2、3。なお、甲四四、八〇、一〇七参照)。

2  そして、一般に、小学生のような児童の自殺は、衝動的であり、その動機において、成人のそれと異なり、叱られたという些細な他愛のないことから決断されるという特徴のあることが認められるが(甲四四、一一一、一一二)、次郎の自殺が、本件殴打行為の後、下校、帰宅に要する時間も含めて約一時間経過したころ、すなわち本件殴打行為に極めて接着した時点でなされたこと(甲七二参照)、帰宅後家族の誰とも顔をあわせることなく、裏山に赴いて自殺したと認められること(甲七六の2、3)、本件全証拠によっても、本件殴打行為の他に、次郎の自殺の動機となり得る事情が存したとはうかがわれないことを総合すると、次郎は本件殴打行為が引きがねとなって自殺したものと推認することができる。すなわち、次郎の自殺と本件殴打行為との間に事実的因果関係の存することは明らかである。

二  争点2(責任原因の存否、相当因果関係の有無)について

1  既に認定した「前提となる事実」(第二の一)及び以下の各項末尾に掲記した証拠を総合すれば、本件殴打行為をめぐる事実関係として、次の事実を認めることができる。

(一) 次郎は、教員の両親、元教員の祖母という、教師の家庭で、父母、祖父母、曾祖父母、妹二人という大家族の中で育ち、小学校六年生まで、心身の故障なく健やかに成長してきた。次郎は、農業に従事する祖父になつき、自然ことに動植物に興味をもつ子どもに育った。小学校入学後、自然への興味に変わりはなかったが、その他、工作が得意で、文章を書かせたり、工作をさせたりすると、子どもらしいユニークな発想をすることがあった。家族、級友そして小学校入学以来の各担任教師らは、次郎を、総じて、明るく元気な子ども、冗談が好きでよく周囲を笑わせる子どもと評価していた。小学校五年次から次郎を担任した甲野教諭もまた、次郎のユニークな発想を評価していたが、一方で同教諭は、次郎に、授業中私語が多く、集中力に欠ける欠点があるとの認識を有していた。しかし、右のような欠点は指摘されていたものの、本件殴打行為の当時まで、次郎には、怠業、怠学、教師に対する反抗や極端な学業不振、周囲の児童との協調を欠くといったような問題は全くなかった。また、次郎と家族間の不和を窺わせる事情も全くなかった(甲四、一八、一九、四一、五二ないし六〇、六五、七六の2、七八、証人甲野太郎)。

(二) 甲野教諭は、前示のとおり、本件当時までに一八年間の教員歴を有するベテラン教員であった。甲野教諭に関しては、児童の間では、特定の児童をひいきしない、教え方が丁寧であるといったことから、好意を持つ者もいたが、反面、よく怒る、機嫌の悪いときは、怒るとしばしば頭、頬を叩くといったことで同教諭を嫌う者もいた。本件小学校の管理者である能勢校長は、甲野教諭をまじめで熱心な教師であると評価していたが、甲野教諭が児童に対してしばしば体罰を加えていることは知らなかった(甲九、一三、三八、四九、五〇、五二ないし六〇、六二、六三、証人甲野太郎)。

(三) 九月九日(金曜日)の第三時限目(午前一〇時四〇分ないし午前一一時二五分)に、甲野教諭は、運動会のポスター描きを、翌週月曜日提出の宿題として次郎らに課し、図柄二種類、文字一種類のプリントをサンプルとして次郎らに配布して、ポスターの描き方の指導を行った。その際、生徒らの中でただ一人次郎が、「先生、ピストルでもええん。」と質問してきたので、甲野教諭は、「それ、ええなあ。先生やったらピストルだけじゃなくて、人のシンボルとピストル描いてピストルの先に煙も描いてその中に秋季運動会と書くよ」と言って、わざわざ黒板に図柄まで描いて、級友注視の中で次郎の発想のユニークさを褒めた。そして、ポスターは、サンプルの図柄を参考にしてもよいし、自分で図柄を考えて描いてもよい、と指導した(甲一八、六八)。

(四) 同日の第五時限目(最後の授業)が終了した、六年一組の放課後の教室には、次郎を含めて少なくとも七名の児童が残っていた。次郎は、自分の席で、翌週月曜日の時間割、持ち物、宿題を連絡帳に写していた。その時、次郎は、自分の席に座ったまま、教卓の所にいた甲野教諭に「運動会のポスターの絵、自分で考えたのんでもええん。」と質問した。

これを聞いた甲野教諭は、授業中既に次郎らにポスターの描き方について説明したはずなのに、またしても説明を求められたことで、何回同じことを言わせるつもりかと腹立たしく感じ、次郎の席に近づいていくなり、「三時限目に説明したやろ。何回同じことを言わすねん。」と大声で怒号しながら、席に座っている次郎に対し、利き腕の左平手で次郎の頭頂部を一回、続けて両頬を往復で一回殴打した。

その後、甲野教諭は、次郎の席からいったん離れ、教卓の方に戻りかけたが、その時、次郎が他の同級生の方を見て照れ笑いをうかべたのを見て、次郎に馬鹿にされたと思い立腹し、再び次郎の席の方に戻り、次郎の正面に立って、「けじめつけんかい。」と怒号しながら、再び、利き腕の左平手で次郎の頭頂部を一回、続けて両頬を往復で一回殴打した。

本件殴打行為後、次郎はうっすらと目に涙を浮かべて甲野教諭の方を睨んでいた。甲野教諭は、次郎が目に涙を浮かべているのを認めたが、次郎に何らの言葉もかけることなく次郎を教室に残したまま教室を出て、ソフトボールの指導に行ってしまった(本項全体につき、甲八、九、一八、一九、四九ないし五一、五四、五七、六〇、六二、六七、六八、七七の2、証人甲野太郎)。

(五) 前記認定の各殴打行為は、力一杯なされたものではないが、叩いた音が周囲に聞こえるほどの力でなされ、右殴打行為の結果、次郎は口内裂傷の傷害を負った(甲五ないし七、九、二一、二二の1、四五、四九ないし五一、六〇ないし六二、七一、九一の1ないし5)。

ところで、右認定に関して、被告は、甲野教諭は三本指で手加減して殴打した旨主張し、証人甲野太郎の証言及び同人の捜査段階の供述調書(甲六八、七〇)中には、被告の右主張に沿う供述部分が存する。本件殴打行為が力一杯なされたものでないことは前記認定のとおりであり、その意味で「手加減して」殴打したといえなくはない。しかし、現に、前記認定のとおり、次郎が口内裂傷の傷害を負ったことからすると、殴打行為が軽いものでなかったことは明らかである。また、殴打行為の態様について、前記認定のとおり、甲野教諭は本件前からしばしば平手で殴打することがあったが、殴打された児童らは、甲野教諭に三本指で殴打されたとは認識しておらず、一様に拳固もしくは平手で殴打された旨を供述している。甲野教諭が捜査段階の取調べにおいてした供述は、捜査段階の当初とその後とで変遷しているが、それらと本件法廷における証言とでも内容を異にしており、そもそも同人の供述には、本件殴打行為のてん末、その後の自己の言動などについて自己の責任を軽くしようとする傾向がうかがわれ、暴行の態様についての同人の供述は措信し難い。

2  責任原因の存否についての判断

(一) 本件殴打行為が暴行に当たることは明らかであって、甲野教諭の右所為は、職務を行うについてした違法行為であるというべきであるから、被告龍野市は、国家賠償法一条一項に基づき、甲野教諭の右所為により原告らの被った損害を賠償すべき義務がある。

なお、被告は、甲野教諭の右所為は懲戒権の行使(教育的指導)であると主張し、証人甲野太郎の証言及び同人の捜査段階の供述調書(甲一九、六八)中には、これに沿う供述部分が存在する。すなわち、甲野教諭は、次郎に対しては、常に、授業中などに集中して人の話を聞くように言い聞かせていたところ、九月九日の放課後に次郎が質問したのは同日の第三時限目に同教諭のした説明を聞いていなかったためと判断し、懲戒行為に及んだというのである。しかし、前記認定のとおり、甲野教諭は、次郎にポスターの描き方について話しかけられるや、次郎に対し第三時限目における指導、説明を思い出させるとか、説明済みであることを説諭するなどせず、大声で怒号しながらいきなり殴りかかっているのであって、右の言動からすると、本件殴打行為は、甲野教諭が次郎の言動に激昂し、感情のはけ口を求めてしたものであると認めることができる。したがって、本件殴打行為を目して懲戒権の行使(教育的指導)と評価することはできず、単なる暴力であったといわざるを得ない。

仮に、本件殴打行為が「教育的意図」をもってなされたとしても、学校教育法一一条ただし書が、体罰の禁止を規定した趣旨にかんがみれば、「教育的意図」の存することが本件殴打行為の違法性を軽減させるものとは解しがたい。すなわち、学校教育法一一条ただし書が体罰の禁止を規定した趣旨、いかに懲戒の目的が正当なものであり、その必要性が高かったとしても、それが体罰としてなされた場合、その教育的効果の不測性は高く、仮に、被懲戒者の行動が一時的に改善されたように見えても、それは表面的であることが多く、かえって当該生徒に屈辱感を与え、いたずらに反発・反抗心をつのらせ、教師に対する不信感を助長することにつながるなど、人格形成に悪影響を与える恐れが高いことや、体罰は現場興奮的になされがちでありその制御が困難であることを考慮して、これを絶対的に禁止するというところにある。したがって、教師の行う事実行為としての懲戒(有形力の行使)は、生徒の年齢、健康状態、場所的及び時間的環境など諸般の事情に照らし、被懲戒者が肉体的苦痛をほとんど感じないような極めて軽微なものにとどまる場合を除き、前示の体罰禁止規定の趣旨に反するものであり、教師としての懲戒権を行使するに当たり許容される限界を著しく逸脱した違法なものとなると解するのが相当である。してみると、本件殴打行為は、右法の要請を顧慮することなく、まことに安易に行われてきた「体罰」の一環といわざるを得ないから(甲九、四九、五〇、五二ないし六〇、六二、六三、証人甲野太郎)、甲野教諭が「教育的意図」を有していたことをもって、これを正当化することは到底できない。なお、本件において、次郎が、放課後にポスターの描き方について、「運動会のポスターの絵、自分で考えたのでもええん。」と質問したのは、決して第三時限目の甲野教諭による説明を聞いていなかったためではなく、甲野教諭から第三時限目に級友の面前で享受した褒め言葉に似た言葉を再度かけてもらえることを期待してのことであったことは、容易に推測し得るところであって、本件殴打行為当時、次郎に教育的指導を加えなければならない非違行為は何ら存在しなかったといわねばならない。そして、右は、甲野教諭においても、本件殴打行為当時、容易に認識し得たはずの事柄である。

(二) 右に説示したとおり、懲戒として体罰がなされた場合でさえ、体罰は生徒の心身に重大な悪影響を及ぼすのであって、いわんや教師の感情の赴くままに単なる暴力としてなされた場合は尚更である。したがって、このような体罰(暴力)がなされた場合には、当該教師において、生徒の受けた肉体的・精神的衝撃がどの程度のものかを自ら確かめ、生徒に謝罪するなど適切な処置をとってその衝撃を和らげる必要がある。これは当該生徒の自殺が予測されると否とにかかわらず、体罰(暴行)を加えてしまった教師に要請される当然の責務である。そして、既に認定した本件殴打行為後の経過に照らすと、甲野教諭には、本件殴打行為によって次郎の心身に及ぼした悪影響を除去する上で過失があったことは否定しがたいものといわなければならない。

なお、被告は、教師に安全配慮義務が発生するのは客観的に見て重大な結果発生が明白に予測される場合に限られるところ、甲野教諭にとって、本件殴打行為はこれまでよりきつい叱り方であったかもしれないが、普段と何ら変わらないことをしたとの認識しかなく、したがって、安全配慮義務の発生するような状況は存在していなかった旨主張するが、被告の右主張は、本来、体罰が生徒の心身に重大な悪影響を及ぼすものとして学校教育法によって絶対的に禁止されていることを考慮しない独自の見解に基づくものであるというほかなく、採用の限りではない。

3  相当因果関係の有無についての判断

(一)  次郎の自殺による死亡について被告にその責任を問うためには、本件殴打行為(加害行為)と次郎の自殺による死亡(損害)との間に相当因果関係が認められなければならないところ、この相当因果関係が認められるためには、次郎の自殺と本件殴打行為との間に事実的因果関係が認められることに加えて、本件殴打行為からそのような結果(児童の自殺)を生ずることが経験則上「通常」といえることが必要である(民法四一六条一項参照)。

そして、右の「通常性」は加害者たる甲野教諭において現に認識していた事情に加えて、同教諭において認識可能(予見可能)であった事情を基礎として判断されるべきものであり(民法四一六条二項参照)、また、「経験則上通常」といえるためには、加害行為(本件殴打行為)当時、加害者たる甲野教諭において通常有すべきであった知識経験を基準として、実際に生起した、損害の発生に至る因果の経過が、加害行為の危険性の現実化していく過程として首肯し得るものと認められれば足り、因果の経過がかなりの蓋然性をもって連なっていることまでの必要はないというべきである。なお、被告の主張は、因果の経過がかなりの蓋然性をもって連なっている必要があるとの見解を前提とするかのようであるが、元来、不法行為における相当因果関係の理論は、異例ないし偶発的な損害を排除して、加害者の賠償すべき損害を合理的な範囲に限定するために導かれたものであるから、ここで要求される「通常性」は異例ないし偶発的な損害を排除し得るものであれば足りる道理であって、かかる観点から右のような見解を採用することはできない。

(二) ところで、懲戒に値する非違行為がないにもかかわらず教師から懲戒を受けた者は、自らに何らかの非違行為があって懲戒を受けた者に比較して、懲戒を加えた教師に対する反発・反抗心が強くなりがちである。本件殴打行為は、自らに何らの非違行為がないにもかかわらず、児童が、級友の面前で、担任教師から一方的に、かなり強度の暴行を受けたというものであり、しかも予期に反して暴力を加えられたというものであったことを考慮すれば、次郎に大きな精神的衝撃を与えるものであったといえる。現に、前示のとおり、本件殴打行為後、次郎は男の子であるにもかかわらず、涙を浮かべて甲野教諭を睨んでいたのである。次郎が、担任教師によって理不尽な暴力を加えられたと受けとめたであろうことは疑いをいれないところである。そして、子どもの自殺に関する専門的な知見が、「子供は、自分の死によって自分を苦しめた相手を罰しようという内的な願望をもっています。たとえば、理不尽に自分を叱った親に仕返しをしようと思っても、腕力では劣るし議論でも負けるという場合、親をこらしめる方法というのがない。そこで、自分にできる最後の、そして最大の方法として自分の命を犠牲にして相手に打撃を与えようとするわけです。(中略)こういう、あてつけ的な自殺は、相手を直接的に罰しようとするばかりでなく、間接的に罰しようとすることもあり、なかなか複雑です。たとえば、自分をいつも叱っている先生とか、クラスメートで腕力でも言葉でもかなわない子に対して、自分が死ぬことでその先生やその子が周りの親や先生におこられることを期待しているわけです。つまり非常に攻撃的な要素が含まれているのです。一般に自殺を逃避的なものと思う傾向がありますが、それは全面的に正しいわけではなく、自分の生命を手段とする最大の攻撃であることもしばしばあります。そしてこのような攻撃的な自殺は子供の場合に一番多い」と述べていること(甲一一二)に徴すると、次郎は、担任教師から理不尽な暴力を加えられたと感じ、それによって自殺を決意しかねない危険な精神状態に陥り、遂に自殺してしまったものと推認するのが相当である(甲四一、四四、八〇参照)。

(三) 昭和五二年頃以降、子どもの自殺が大きな社会問題として取り扱われるようになった。すなわち、昭和五二年一〇月の第八二回国会(同月七日の衆議院本会議、同月二六日の衆議院文教委員会・文教行政の諸施策に関する小委員会)において少年の自殺防止についての審議が行われた。それを受けて、総理府青少年対策本部は各都道府県・指定都市青少年対策主管部局長宛てに「少年の自殺防止について」と題する通知を発し、文部省も同年一一月一二日付で各都道府県・各指定都市教育委員会宛てに右総理府通知を紹介する形で、同名の通達を発し、「最近、児童生徒の自殺が各地でみられ、社会的な問題」となっているとの認識を示した上で、「児童生徒の自殺防止についてできるだけの配慮」を求めた(甲一〇八)。さらに、文部省は、昭和五四年二月二四日付で各都道府県・各指定都市教育委員会宛てに「児童生徒の自殺防止について」と題する通達を発し、改めて、「最近、児童生徒の自殺が各地でみられ、社会的な問題」となっているとの認識を示した上で、「児童生徒の自殺防止についてできるだけの配慮」を求めた(甲八五、一〇八)。兵庫県教育委員会においても、同じ時期の昭和五四年二月一日付で各市町村教育委員会宛てに「児童生徒の暴力事故並びに自殺行為等の根絶について」と題する通達を発し、「最近、児童生徒の暴力事故や自殺などの行為が全国的に続発していることは、誠に憂慮すべきことであります。本県においても、校内における殺傷事故や自殺などの問題行動が発生したことは、平素から人命の尊重と暴力の追放について、格別努力していただけに、極めて残念であります」との認識を示していた(甲九〇)。

そして、子どもの自殺が大きな社会問題となる中で、子どもの心の脆弱さや衝動性の強さが意識され、教師や親の子どもに対する接し方にも社会の関心が寄せられるようになっていたといえる。すなわち、平成元年から平成五年までの間をとってみても、毎年のように、親や教師による叱責・体罰を原因として青少年が自殺している事実が報道されている(甲一一四の10、15、19、42、一一五の3、15)。さらに、昭和六〇年二月に横浜の小学五年生の男児が担任教師に叱責されたことを原因として飛び降り自殺した事件が報道されたが、その一連の報道の中で、「教師は、子どもにとって重い存在である。その一挙一動、片言隻句が、子どもに与える衝撃は、この上なく大きい。子どもを傷つけることも多い。それを子どもが受容するのは、教師を愛しているからだ。子どもの愛に甘えて、教師が限界を超えるとき、悲劇が起きる」という見方も示されていた(甲一一六の2)。なお、前示の「子どもの自殺に関する専門的な知見」は、昭和五八年一一月二五日発行の書籍中に述べられていたものである(甲一一二。この書籍の著者は、同様の見解を、既に昭和五三年六月二五日発行の書籍中で明らかにしていた〔甲一一一〕)。

甲野教諭は昭和五一年に教師となり、以後本件殴打事件発生に至るまで兵庫県下の小学校に勤務してきたのであるから、右の社会情勢に接してきたものと推認され、常時生徒に接する立場の教職にある者として、子どもの自殺に対する問題意識を当然に持ちうる状況にあったということができる。そして、本件殴打行為がなされた当時の社会情勢にかんがみれば、前示の「子供の自殺に関する専門的な知見」は、加害行為(本件殴打行為)当時、教育専門家たる教師が通常有しておくべき知識であったといってよい。

(四) 本件殴打行為がなされるに至った経緯、これに対する次郎の態度・反応にかんがみれば、甲野教諭において、相応の注意義務を尽くせば、本件殴打行為当時、次郎に教育的指導を加えなければならない非違行為のなかったこと(二2〔責任原因の存否についての判断〕の(二))、したがって、次郎が本件殴打行為を理不尽な暴力と受けとったであろうことを容易に認識し得たというべきである。

(五)  甲野教諭が現に認識していた事情(本件殴打行為がなされるに至った経緯、その態様、これに対する次郎の態度・反応、甲野教諭の事後の対応)と甲野教諭が認識し得た事情(次郎に教育的指導を加えなければならない非違行為のなかったこと、次郎が本件殴打行為を理不尽な暴力と受けとったであろうこと)を基礎事情として、前示(三)において説示した教師が通常有すべき知識経験を基準にして判断すると、前記(二)で認定した本件殴打行為から次郎の自殺に至るまでの因果の経過は、加害行為の危険性が現実化していく過程として十分首肯し得るものと認められる。現に、証拠(原告乙川花子、甲九二)によれば、本件で九月九日に次郎の遺体が発見される前後、すなわち次郎の行方不明の報に接した時、及び死亡が確認された時のいずれの時点においても、甲野教諭は、同日の本件殴打行為にまず思い至ってその旨を原告らに話し、また、その段階では真相がわからず、誰に非難されたわけでもないのに、本件殴打行為後のフォローをしなかったことを悔やむ言動に及んでいたことが認められるのである(この点、証人甲野太郎は、法廷において、右のような発言をしたことを否定するかのような証言をしているが、同人は、本件殴打行為当日の取調べにおいて、警察官に対し、次郎の自殺の心当たりとして本件殴打行為の詳細を供述し、また、殴打行為の後に指導をしなかったことを後悔する旨も供述しており〔甲一八〕、法廷における同証人の右証言部分は信用しがたい。)。よって、次郎の自殺による死亡と本件殴打行為との間には相当因果関係があるというべきである。

そして、本件殴打行為と次郎の自殺との間に相当因果関係の認められることを前提に、甲野教諭において次郎の精神的衝撃を緩和する努力をしておれば、次郎の自殺を防止することのできた蓋然性の高いことにかんがみれば、前記の安全配慮義務違反と次郎の自殺による死亡との間にも相当因果関係があるというべきである。

もっとも、身体に対する加害行為と発生した損害との間に相当因果関係がある場合においても、その損害が加害行為のみによって通常発生する程度、範囲を超えるものであって、かつその損害の発生について被害者の心因的要因が寄与しているときは、損害の公平な分担という見地から、損害賠償額を定めるにつき、民法七二二条二項を類推適用して、その損害の拡大に寄与した被害者の右事情を斟酌するのが相当であるところ、本件においてこれを見るに、自殺を決意した次郎の心情を思うとまことに惻隠の情を禁じ得ないが、しかし一方で、周囲の者にとってみれば、突然に自殺という最悪の選択をしてしまったことに割り切れない思い抱くことも否定できない。本件で、次郎に対し、生き続けることを期待することが次郎にとって酷であったとはいえず、また現に期待されていたというべきである。損害の公平な分担という見地からすると、自殺を選択したこと自体について、次郎が一定の責任を負うべきものとされるのはやむを得ないところである。したがって、損害の拡大に寄与した次郎の心因的要因(意思的関与の程度)に応じて、後記のとおり、その損害額を減額するのが相当である。

三  争点3(損害の有無、数額)

1  次郎に発生した損害

(一) 逸失利益

前記認定及び弁論の全趣旨によれば、本件殴打行為(自殺)時における次郎の年齢は満一一歳(昭和五八年一月一五日生)であり、本件殴打行為を原因として自殺しなければ高校を卒業した満一八歳から満六七歳になるまでの四九年間稼働可能であり、この間、少なくとも平成六年度賃金センサスの学歴計・全年齢平均の男子労働者の平均年収額である五五七万二八〇〇円の収入を得られたものと認められるところ、右年収を基礎にして、生活費として五割を控除し、ライプニッツ方式(係数は、18.5985から5.7863を控除した12.9122)によって年五分の割合による中間利息を控除して、次郎の逸失利益の本件殴打行為時の価格を算定すると、三五九七万八五五四円(円未満四捨五入)となる。

(二) 慰謝料

本件殴打行為がなされるに至った経緯、その態様、次郎が本件殴打行為によって受けた精神的衝撃の程度など、その他、本件訴訟の審理に顕れた一切の事情を考慮すると、次郎が本件殴打行為によって受けた精神的苦痛を慰謝するには二五〇〇万円をもって相当とする。

(三)  次郎の自殺による死亡については、前記のとおり次郎の心因的要因が寄与しており、損害の公平な分担という見地から、その損害額の五割を減額するのが相当であるから、前記(一)及び(二)の合計額六〇九七万八五五四円の五割である三〇四八万九二七七円を、被告の賠償すべき次郎に発生した損害とするのが相当である。

(四) 原告らの相続

原告らが次郎の両親であることは当事者間に争いがない。したがって、原告らは、次郎が本件殴打行為によって被告に有していた損害賠償請求権をそれぞれ二分の一ずつ相続したと認められるから、原告らは右三〇四八万九二七七円の二分の一の一五二四万四六三九円(円未満四捨五入)の損害賠償請求権を有している。

2  原告ら固有の損害

(一) 慰謝料

次郎が担任教師の理不尽な暴力により自殺するに至ったことにより、次郎の父母である原告らが相当の精神的苦痛を受けたことは容易に推認しうる。前記までに認定のとおり、本件では、次郎の死が自殺であること、そしてその直接の原因が本件殴打行為であることは、良識をもって判断すれば明らかであるにもかかわらず、証拠(甲八二の2、3、九二、九四の4、一〇二、一〇五、原告乙川花子)によれば、次郎の自殺後も、被告は、次郎の死を学校管理外の事故死と評価し、学校関係者は、自殺の原因が原告らの家庭や次郎自身の問題にあるかのような誤解を与えかねない心ない言動をとっていたことが認められ、これらにより、原告らの精神的苦痛が一層増大させられたことも否定しがたい。その他、本件訴訟の審理に顕れた一切の事情を考慮すると、原告らが本件殴打行為によって被った精神的苦痛を慰謝するには各二〇〇万円をもって相当とする。

(二) 弁護士費用

本件事案の性質、難易度、認容額など本件訴訟の審理に顕れた一切の事情にかんがみると、原告らの弁護士費用として被告に賠償せしめるべき額としては、各一七二万円が相当である。

四  結論

以上の事実によれば、被告は、原告らそれぞれに対し、一八九六万四六三九円(合計三七九二万九二七八円)及びこれに対する本件不法行為の日である平成六年九月九日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。よって、原告らの被告に対する各請求は、右の限度で理由があるから認容し、その余はいずれも理由がないから棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判官三木昌之 裁判官柴田誠 裁判長裁判官大谷種臣は、転補のため署名押印できない。裁判官三木昌之)

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